よこはま
かんていびょうものがたり

ここ 横浜よこはま中華街ちゅうかがいには
商売しょうばいの神さまがいる「かんていびょう」と
海の女神めがみさまがいる「びょう」があります


かんていびょうびょうも、
中華街ちゅうかがいの人々を
見守みまもってくれています。

そこには 長い歴史れきし
ふかいおはなしがあるようです

今日は かんていびょうのおはなし
のぞいてみることにしましょう

第一部 「関羽かんう伝説でんせつ

今から、約一八〇〇年も前の中国に、
ひとりの英雄えいゆうがいました。名前を関羽かんうと言います。
関羽かんうは、仲間との約束を絶対に守る人でした。
ある日、仲間である劉備りゅうび
敵との戦いに負けてしまったとき、
関羽かんうは、劉備りゅうびの家族を一生懸命いっしょうけんめいに守りました。
なぜなら、劉備りゅうびと約束していたからです。

劉備りゅうびの大切な家族を、
決してあぶない目にはあわせません」と。

それに関羽かんうは、計算をするのがとても得意でした。
作戦のために必要ひつような仲間の人数や時間、
食事の量や武器ぶきの数まで、
こまかく正確に計算をするのです。

こうした関羽かんう伝説でんせつは、
何十年、何百年と中国で話されました。
そのうちに関羽かんうは、人々のあいだで
商売しょうばいの神さまだと言われるようになりました。
約束を守ることや、計算をすることは、
商売しょうばいでとても大切なことだからです。
このことは、広い海をわたった
横浜よこはま中華街ちゅうかがいでも話されています。

第二部 「かんていびょうと横浜中華街」

今から約一五〇年以上も前のことです。
ひとりの中国人が、この横浜にやってきました。
彼は、あるものを持っていました。
それは中国の英雄えいゆう関羽かんうの像です。
ついに、ここ横浜に関羽かんうさまがやってきたのです。
横浜に住んでいた中国の人たちは、
関羽かんうさまのいるおどうへ、集まるようになりました。
そこで関羽かんうさまにおいのりをするのです。
「ふるさとから遠くはなれた横浜で、
安心あんしんして暮らせますように…」と。

その後、関羽かんうさまのために、
より大きなおどうを作りはじめました。
これが「かんていびょう」です。
中華街ちゅうかがいの人たちはみんなよろこんで、
まちはお祭りさわぎでした。

ところが、しばらくたったある日、
大きな地震じしん人々ひとびとをおそいました。
関東かんとう大震災だいしんさいです。
家やお店はこわれ、火事もおこり、
関羽かんうさまがいるかんていびょうも、
ひどくこわれてしまいました。

中華街ちゅうかがいの人たちは、地震じしんによって、
家も関羽かんうさまも、うしなってしまいました。
しかし、彼らはあきらめなかったのです。
地震じしんがおきてからもなく、
また新しいかんていびょうを作りました。

新しい関羽かんうさまは、
建物たてものおくにひっそりとすわっていました。
ときどき子どもがやって来て、
「学校の試験しけんで良い成績せいせきがとれますように」と、
学業がくぎょう成就じょうじゅのおいのりに来ることもありました。

ところが、こんどは戦争せんそうがおこり、
爆弾ばくだんが空からたくさん落ちてきました。
中華街ちゅうかがいほのおにつつまれ、
関羽かんうさまも、やされてしまったのです。

おそろしい戦争せんそうが終わったあと、
すぐにまたかんていびょうが作られ、
新しい関羽かんうさまが、中華街ちゅうかがいにやってきました。

しかし、そのころ中華街ちゅうかがいでは、
多くの人が病気にかかっていました。
病気はどんどんうつり、
くなってしまう人もいました。
人々はどうすることもできず、
関羽かんうさまの像をおみこしに乗せて、
まちをり歩きました。
関羽かんうさまが近くにくると、
病気で寝ていた人も家の前に出てきて、いのりました。

関羽かんうさま、どうか病気がおさまりますように。」

それからほどなくすると、
まるで関羽さまに祈りが届いたかのように
病気はおさまり、
また平和な暮らしが、中華街ちゅうかがいに戻りました。

ある年の お正月しょうがつのことでした。
突然とつぜんかんていびょうが燃えてしまったのです!

かんていびょうが燃えているぞ!」

それを聞いた近所の人はあわてて、
関羽かんうさまのもとへ 向かいました。
到着とうちゃくした頃には、
もう建物の半分が燃えてしまっていました。
しかし幸運なことに、関羽かんうさまの像は燃えず、
それどころか、きずひとつなかったのです。

毎日おまいりしていたかんていびょうが、
火事でなくなってしまって、
みんなさみしい思いをしていました。

そこで人々はすぐに、
新しいかんていびょうをつくる準備じゅんびをはじめました。
でも、それにはとても多くのお金が必要ひつようです。

お金を用意よういできず困っていたところ、
たくさんの人から、寄付きふが集まりました。
なぜなら、みんな、これまでに何度も
関羽かんうさまに助けてもらったからです。

火事が起きてから四年後、
中華街ちゅうかがいの人たちが協力きょうりょく
何度も話し合ったり、工夫くふうしたりして
ようやく、これまでで一番立派りっぱ
現在のかんていびょうができあがりました。

その知らせは、海の向こうの中国でも、
大きなニュースになったほどです。

それからも毎日、晴れの日も雨の日も、
たくさんの人が
かんていびょうにおまいりにやってきます。

関羽かんうさまが、
ずっと、この横浜よこはま中華街ちゅうかがい
守ってくれているからです。

おしまい

関帝廟 http://www.yokohama-kanteibyo.com/
媽祖廟 http://www.yokohama-masobyo.jp/jp/

著者:臼井遥比
協力:一般社団法人 横浜關帝廟
    伊藤泉美(横浜開港資料館)
翻訳:安西智    Dariya Oblivantseva

参考文献

・「関帝廟と横浜華僑」編集委員会 (二◯一四)
『関聖帝君鎮座150周年記念 関帝廟と横浜華僑』自在株式会社


・ 伊藤泉美(横浜開港資料館主任調査研究員)(二〇〇九)
『横浜開港150周年記念 横浜中華街150年ー落地生根の歳月』
横浜開港資料館

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